「昌平坂学問所」では何が教えられていたか?
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■「湯島聖堂」と「昌平坂学問所」
皆さんは東京・お茶の水にある湯島聖堂へ行ったことはあるでしょうか?お茶の水駅のホームから正面に見えるほど近く、所在は江戸時代から変わらず同じ場所のままです。
聖堂とは儒学の祖・孔子の廟を言い、江戸時代も「湯島聖堂」、後に学問所が出来てからは通称「昌平坂学問所」と呼ばれました。現在は隣が東京医科歯科大学ですが、まさにその敷地こそが昌平坂学問所だった場所。僅か150年前までは幕府の直参(御旗本・御家人)とその子弟たち、少数ですが諸藩の藩校から留学しに来た優秀な子弟たちが行きかい、教授(儒者)の詰所や役宅、生徒の寮などが立ち並んでいたのです。
昌平坂学問所は名前は有名ですが、その実態はあまり知られていません。
しかし紐解いていくと、既に現代と同じ言葉や言い方、使い方や休暇などがあることがわかり、幕末には「あの超有名な志士」が在籍していたりして面白いんですよ。
私と一緒にちょっと、どんな感じだったのか覗いてみましょう。
まず、いかにして「湯島聖堂」から「昌平坂学問所」誕生に至ったかについて。
1630年、儒臣・林羅山が上野忍ケ丘に土地を拝領。家光から200両(2千万円)を賜り、その邸内に孔子廟を建てて「林家の私塾」としたのが最
初です。
そこへ尾張藩主・徳川義直が孔子・四賢(顔子、會子、子思、孟子)の像と、釈奠(孔子を祀る祭祀)の祭器などを寄付。自ら「先聖堂」の扁額を書いて与え、「湯島聖堂の前身」が誕生します。
5代将軍・綱吉は自ら漢籍を講釈するほど好学ゆえに、1690年、聖堂を神田台(現・湯島)に移し、先聖堂を「大成殿」と改称。釈奠の費用として幕府は1000石を寄進し、その他の附属施設をも含めて「聖堂」と称させ、「湯島聖堂」が誕生しました。
綱吉は建物全体を朱塗り・青緑で綺麗に彩色。自ら聖堂を訪れ孔子廟に幾度も廟参、釈奠に参列、講釈もしています。
1703年の大火で類焼した時、翌年復旧した入徳門は、以来、失われることなく現存しています。
そして吉宗の孫で老中・松平定信は寛政の改革の一環として、乱れた風紀引き締めも兼ね、土地を更に与えて湯島聖堂を綱吉時代の勢威時に復し、「林家の私塾」から「幕府直轄の最高学府」に昇格させると、幕臣のための学問所なる「学問所」と改称。その広さなんと、1万1600余坪!別名「昌平黌」とも呼ばれました。
時に1797年。ここにようやく「昌平坂学問所」が誕生しました。